夜の函館山から眺める美しい市街地のきらめきは、世界三大夜景の1つと言われます。函館山は太古に噴火して出来た島で、長い時間をかけて砂州(さす)が形成され、陸地と繋がりました。こうした地形を「陸繋島(りくけいとう)」と呼びます。

日本各地に40カ所ほどあり、砂州が天然の防波堤となるため多くは、昔から港として活用されてきました。函館港もその1つで、江戸末期に艦隊を率いて来航したアメリカのペリー提督は、函館港を見るなり「世界最高の良港」と絶賛しました。

Hakodate harbour 1854/ペリー艦隊が実測・作成した「箱館港図」をイギリス海軍が復刻刊行したもの
出典:函館市中央図書館(デジタル資料館)

国際貿易の玄関口として世界に門戸を開いた函館港に西洋文明が続々と上陸し、函館エリアは日本先進地域として発展しました。明治に入ると、政府は函館を北海道開拓の前進基地と位置づけ、函館港の近代化を進め、1908(明治41)年には本州と北海道を結ぶ青函連絡船が開通しました。

1920年代には、日露戦争によって漁業権が認められたオホーツク海やベーリング海などへ大型漁船が出漁し、サケ・マス・カニなどを水揚げする北洋漁業もスタート。主要基地の函館港から北洋を目指す大船団が次々と出港し、港周辺には水産物を保存する巨大倉庫群が建ち並び、北の水産都市は全盛期を迎えました。人口も急増し、1933(昭和8)年には20万人を突破、函館は国内10指に入る大都市に成長しました。

北洋漁業と並んで活況を見せたのがイカ釣り漁業。目の前に広がる津軽海峡はスルメイカ(真イカ)の国内最大漁場で、戦前から函館沿岸のイカ釣り漁業は圧倒的な漁獲量を誇りました。特に1950年代には漁獲量が急増し、全国の半分近くを函館港を含む渡島管内で水揚げする豊漁が連日のように続きました。獲れ過ぎて浜では20尾10円で投げ売りした、と新聞に報道されたほどです。

昭和30年頃の北洋漁業基地函館 
資料所蔵:文化歴史資料館

漁獲量急増の要因は、日帰り操業が可能な函館近海の津軽海峡に小型漁船を含むほとんどの地元漁船が出漁したほか、本州からも漁船団が大挙してイカ釣り漁業に参加したことなどが上げられています。北洋漁業の街、そしてイカの街として函館は全国に名を轟かせました。

しかし、1970年代後半に終了した北洋漁業は過去の栄光であり、イカの漁獲量も長期にわたり、低迷を続けています。現在、輝かしい歴史を誇りとしながら、21世紀にふさわしい函館の姿が模索されています。函館からスタートし、函館で基盤を築き、成長した企業として、私たち道水も、夢ある函館を実現するまちづくりに協力しています。